02.ゆびきり 編曲:高田 弘
03.あこがれ 編曲:高田 弘
04.ひとりぼっちの幸福 編曲:都倉俊一
05.川のある町 編曲:高田 弘
06.水の中の小さな魚 編曲:高田 弘
07.はじめまして奈々です(通学電車の中で……)編曲:都倉俊一
08.水色の絵の具 編曲:都倉俊一
09.風のふれあい 編曲:都倉俊一
10.朝顔の花 編曲:都倉俊一
11.きまぐれ 編曲:都倉俊一
12.昨日・今日・明日 編曲:都倉俊一
14.水の中の小さな魚(オリジナル・カラオケ)
2025.03.25
岡田奈々『青春のアルバム 復刻CDボックス』 パッケージ開封動画を公開しました
2025.02.04
岡田奈々『青春のアルバム 復刻CDボックス』名曲メドレーを公開しました
2025.01.16
収録内容を公開しました
2025.01.16
インタビュー後編を公開しました
2025.01.16
商品内容を更新しました
2024.12.20
インタビュー前編を公開しました
2024.12.19
映画『青春の構図』からの初商品化音源が1曲追加、計3曲となりました
2024.12.18
特典情報(サイン入り先着)更新しました
2024.12.11
特設ページ開設しました
*サイン入り、サインなし共に特典は無くなり次第終了とさせて頂きます。
品番:PCCA.50333 価格:¥29,700(税込)
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ーーデビューのきっかけはスカウトだったと伺ってますが、その頃は歌手になりたいとか、女優やタレントのお仕事を夢に抱かれていたのでしょうか?
生まれ故郷だった岐阜の柳ヶ瀬で声をかけられたんですが、その時すぐには歌手になることはまだ考えられなかったですね。突然のことでしたから。タレントさんになりたいという気持ちはあったかもしれませんが、やっぱり遠い手の届かない世界だと思ってました。なりたくてもなれるもんじゃないですし。
ーー当時は憧れていたスターの方はいらっしゃったんですか?
小学生の頃から歌謡曲は大好きでよく聴いてましたね。その時は、いしだあゆみさん、小川知子さん、それに黛ジュンさんの歌が大好きでした。その後、同年代の中三トリオで森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんがデビューしてこられたんです。
たくさんテレビに出ていらっしゃるのを観て、私と同じ年齢でも歌い手さんとしてやっていけるんだっていうことを思いました。
ーーそんな時に声をかけられたんですね。
そうですね。でも、(歌手を)やりたいけどできるものじゃないとずっと思ってましたから。自分から東京へ行こうとか、オーディションを受けようみたいな前向きな性格じゃなかったので、声をかけられた時は嬉しかったといいますか、ちょっと夢を見てるみたいでしたね。その時にスカウトされていなかったら、この世界には入っていなかったと思います。
ーーそれをきっかけにオーディション番組の『決定版 あなたをスターに!』(NETテレビ/現・テレビ朝日))に出られることになったんでしょうか。
スカウトされてからすぐに東京へ行きまして、最初にコマーシャルのオーディションを受けたんです。それでグリコのアーモンドチョコレートのコマーシャルをすぐにいただいて。2ヶ月後ぐらいにはもうコマーシャルの撮影が入ってました。なので番組に出た時はもうコマーシャルが放送されている状態だったんです。『決定版 あなたをスターに!』への出演は、自分の意思というよりもスタッフの方々がオーディション番組で合格した方が売り出しやすいだろうっていう考えからでした。当時は『スター誕生!』(日本テレビ)や 『君こそスターだ!』(フジテレビ)などいろんなオーディション番組がある中で、この番組に出ることになったんです。
ーーそこで明確に歌手デビューという方向性が定まった感じだったんでしょうか?
その時点ではまだ私が何ができるかがわからないので、オーディションの中でも坂上二郎さんの娘役を選ぶというドラマのヒロイン募集という枠でした。オーディションではお芝居をしたり、歌ったり、ミニスカートを履いて歩かされたりとか、いろんな課題が出て何が向いてるのかを審査されました。それでももうスカウトされた事務所に入ってるので、上京する前からお芝居や歌のレッスンに通っていたんです。
ーーいよいよ歌手としてのデビューが決まった時はどんなお気持ちでしたか?
それはもう嬉しかったですよ。私はキャニオン・レコードの系列だったNAVレコードからのデビューだったんですけど、それまで知らないレーベルだったんですよ。スカウトされた事務所もあまり大手じゃなかったので、家族からは「本当に大丈夫か?」って言われたり(笑)。私もそんなふうに思ったりもしましたね。でも最初にお会いさせていただいたのが、作曲家の都倉俊一先生だったので、これは大丈夫なんだろうと思いました。
ーーどんなお話をされたか憶えてらっしゃいますか?
初めて上京した時に会わせていただいたんですけど、もう何をお話したかは憶えてません。記念写真を撮らせていただいたんですけど、ピンボケのものばかりで人にお見せできるような写真は1つもなくて(笑)。都倉先生は当時『スター誕生!』で審査員をされていて、人気もあった方でしたから、本当に緊張してしまったんだと思います。
ーーその時から既に、デビュー曲は都倉俊一さんが作曲ということが決まっていたんでしょうか?
たぶん事務所的にはもう決まっていたんだと思います。デビュー曲用には3曲も用意されていて、びっくりしました。最初のシングルをどれにするかをスタッフの皆さんで選びました。「ひとりごと」とそのB面になった「ひとりぼっちの幸福」、それと「女学生」で、この3曲を最初にレコーディングさせていただいたんです。でも、録音した時のことは全く覚えていなくて……。ただ、スタジオは憧れの場所でしたので、本当に歌手になれるんだと実感しました。小学生の頃から歌手になりたかったっていう思いが実現するんだなっていう。5年前の45周年に「坂の途中で」という新曲をいただいた時もそうだったんですけど、レコーディングスタジオって独特なんです。ブースに入ってマイクの前に立ってヘッドホンした時に、もうゾクゾクするんです。33年ぶりの新曲だった「坂の途中で」は、デビューの時と変わらない思いで歌わせていただきました。
ーー当時、レコーディングで苦労されたようなご記憶はありますか?
私は声が出しづらいって言いますか、よく言えばハスキーなのかもしれませんが、顔に似合わないって言われたことがよくありました。自分としてはもっとマイクに通る声だったらよかったなと思うんですけど、低音も高音もあまりよく出なかったりするんです。「ひとりごと」の最後の方でちょっと巻き舌っぽくなってるところがあるんですよ。そこが自分では気になったり、ついマイクを吹いちゃうとか、いろいろ注意されましたね。イントロもすごく好きなんです。初めて聴いた時は童謡の「ぞうさん」のようなイメージがあったんです。でも、すごく可愛い曲をいただきました。
ーー1975年 5月10日に記念すべきデビューシングルが発売になりましたが、その時はレコード店へ見に行ったりされたのでしょうか。
はい、行きました。その頃は転校して堀越学園に通ってましたので、その帰りにレコード屋さんへこっそり見に行きました。こっそりと(笑)。ちゃんと並べて置かれていて、なんだか夢のような不思議な感覚でしたね。
ーーレコードデビューされて、身の周り回りに変化はありましたか?
やっぱりガラッと変わりましたね。親元を離れて一人で上京して、転校もして、生活環境がすっかり変わりました。でも、寂しいとかそういう思いは全くなかったんです。日々の仕事が詰まっていたからかもしれないと思います。一日のスケジュールは最初がコマーシャルの撮影があり、その後にドラマの現場へ行って、最後は歌という日が続いてかなり忙しかったんです。その間に学校へも通ってました。
ーーデビュー曲「ひとりごと」のリリースからおよそ2ヶ月後の7月25日には、もうファーストアルバム『奈々のひとりごと』が発売になりました。今回のCDボックスはアルバムを主体としたものになっていますので、ここから各アルバムの思い出やエピソードを中心にお伺いしていきます。やはりアルバムとなると曲数も多いですから、シングルに比べるとレコーディングもずいぶんが時間かかったと思いますが、いかがでしょうか?
そうですね、私の場合は1回では終わらなくて、1曲を録るのに1日から2日かかっていました。レコーディングは夜中が多かったんです。デビュー曲はちゃんとレッスンしたんですけど、その後はデモテープをいただくと、それを移動中に聴いて覚えてレコーディングに臨んでいました。もっと丁寧に歌いたかったなっていう思いはありますね。最初のアルバムは都倉俊一さんが監修で、構成が松本隆さん。編曲は4曲が高田弘さんでした。都倉先生のレッスンはご自宅に行って受けていました。私の記憶違いだったら申し訳ないんですが、この時はまだ松本隆さんにはお会いしてなかったか、あるいはご挨拶だけさせていただいたのかもしれません。作曲も全部、都倉先生で、たしか3曲くらい音楽に乗せて台詞を言う曲がありましたね。私は岐阜出身なので、その訛りが少し出たりして指導された憶えがあります。
ーージャケットの写真はアルバムのために撮影されたのでしょうか?
そうだったと思います。コマーシャルに多く出させていただいてたので、ポスターの中にはその時の写真もあるかもしれないです。最初のアルバムはエメロンシャンプーのCM撮影もあった頃かと思いますけど、ジャケットはその衣装ではないですから、ちゃんとアルバム用に撮影したものですね。
ーー当時、歌の衣装はどんな感じで作られていたんでしょうか。
1曲に対して、2着ぐらいは作っていただいてました。自分から着たい服を提案することはなく、渡されたものを着るという感じでした。ジャケットの写真では事務所の人の服を借りたりもしましたね。「ひとりごと」で着ているベストは、当時の事務所の社長さんの奥様のものです。「女学生」のジャケットで着た服は、洋裁をやっていた母が作ってくれたんです。
ーー翌年のシングルですが、「青春の坂道」のジャケットではセーターにある番号がなぜか7番ではなく、6番を着ていらっしゃいましたね。
あれは日立のパディスコというラジカセのコマーシャルをやらせていただいていた時に、その商品名についていたナンバーの衣装だったんです。私の名前のイメージだと7番ですから、不思議に思いますよね(笑)。
ーーファーストアルバムの翌月、8月25日にセカンドシングルの「女学生」が発売だったので、まだデビューシングルだけしか出ていないのに、もうアルバムが作られたわけですから、この速いペースはなかなか大変だったのではないでしょうか?
でも、他の歌手の皆さんもそうだったかもしれないですね。この当時の新人歌手はファーストアルバムではカヴァー曲を歌うことが多かったのですが、私の場合は最初から全曲がオリジナルを作っていただいて有難かったなと思います。まだ声が出ていなくて、恥ずかしい部分もあるんですけど、大好きなアルバムですね。「はじめまして奈々です」は、私の名前まで入れていただいて、可愛らしい大好きな歌です。「水の中の小さな魚」もキャンペーンなどでよく歌わせていただいてました。今改めて、私はもっと歌ってこなければいけなかったなと、本当に思います。全て良い歌ばかりなのに、レコーディングだけで終わってしまった歌がたくさんあって、作っていただいた方々に失礼だったなあ……と思ったりもします。もっと歌いたかった気持ちは当時もあったのですが、歌以外のお仕事も多かったので、なかなか歌に費やせる時間がなくて、その点は本当に悲しいというか残念だったなって思います。
ーーデビューした年の暮れ、12月10日にサードシングル「くちづけ」と同時発売だったのがセカンドアルバムの『憧憬』でした。これも全て作詞が松本隆さんですが、作曲は都倉俊一さん以外の方も手がけていらっしゃいます。
このアルバムでは6人の方に2曲ずつ作曲していただいたんですが、 この中で特に大好きなのが、実川俊さんが書かれた「ふるさとをあげる」という曲です。なんだか気持ちが和んでいくような感じがして、個人的に好きでよく歌っています。中村泰士先生もスタジオに来てくださいました。その場でレッスンといいますか、最後までビブラートで歌いなさいなどと教えていただきました。「時計の針を止めて」と「海のレストラン」は、松崎しげるさんの作曲ですね。松崎さんは事務所が一緒だったので、よくレコーディングスタジオに来て教えていただいた記憶があります。松崎さんはすごい歌唱力で歌い上げる方だからか、作って下さった曲もサビに向けて盛り上がっていくような感じですね。
ーー松本隆さんによる歌詞は歌われていてどんな感じでしたか?
松本隆さんの詞は本当に情景が浮かびます。なんと言っていいのか……女心をものすごくよく解ってらっしゃるようで、歌詞がすっと入ってきて歌いやすかったんです。作詞家の方って、男女関係なく女心をうまく書かれていて、すごいなと思います。『憧憬』の曲では私の声が、シングルの曲よりも少しよく出ているような感じがしましたね。
ーー後に主にアレンジャーとして活躍される瀬尾一三さんは、『憧憬』では作曲もされているんです。
そうですね。「冬便り」や「らぶ・そんぐ」も好きな曲です。すごく素敵なメロディーで、コンサートでも歌いました。本当に良い曲ばかりだと思います。私と同じぐらいにデビューした他のアイドル歌手にも、アルバム、シングルを問わず素晴らしい曲がたくさんあるので、すごく贅沢でいい時代に歌のお仕事をさせていただいていたんだなと、つくづく思いますね。
ーーレコードの発売順では翌年1976年3月10日にシングル「青春の坂道」が発売されました。「青春の坂道」はエポックな曲になりましたが、やはり代表曲と言ってよろしいでしょうか?
はい、代表曲ですね。私の中では1番ヒットした曲です。曲をいただいた時に、「なんかいいな」と思ったりした感じはありました。もうイントロを聴いただけで、これは良い曲だなって思いましたね。
ーーヒットの予感みたいなものがありましたか?
どうなんでしょう……そこまではなかったかもしれません。当時は他の皆さんのヒット曲がたくさんありすぎて、スタッフも私自身ももっと売れてほしかったんですけど、なかなか上位にはいけなかったので……。活躍している歌手の層が厚くて、その中でヒットを出すのはものすごく大変なことだったんだろうと思います。だから私にとってはヒット曲でも、他の皆さんとは桁が違う小ヒットですから。
ーーいえいえ、昭和世代はみんな知ってるアイドルの名曲です!
本当ですか? それは嬉しいですね! 当時出ていた『俺たちの旅』というドラマでも、発売に合わせて使っていただいたんです(3月7日放映、第22話「少女はせつなく恋を知るのです」)。これの前のシングルだった「くちづけ」も森田公一さん(の作曲)ですよね。たしか「青春時代」(森田公一とトップギャラン)がヒットしたのは、「青春の坂道」と同じ年でした。私も「青春」が曲名に付く歌が多かったような気がします。
ーーそうですね、この年の12月に出た「かざらない青春」というシングルもあります。そして、ドラマの青春ものにもたくさん出ていらっしゃって、それで今回のCDボックスは『青春のアルバム 復刻ボックス』というタイトルが付けられたと聞いております。「青春の坂道」は、ドラマ『俺たちの旅』のために歌を録音したヴァージョンと、映画『青春の構図』で歌われたヴァージョンも収録されていて、特に貴重な音源だと思います。そして、CDボックスでの収録順では最後のディスクとして構成されてますが、実際のリリース順は「青春の坂道」の後、5月10日に1976年のバースデイコンサートがライブ・アルバムとして発売になりました。
ーー『セブンティーン! 岡田奈々バースディコンサート』(1976年5月10日発売)というライブ・アルバムが発売になったのは、デビューからちょうど1年後なんですね。このコンサートのことは憶えていらっしゃいますか?
はい、中野サンプラザでやらせていただいた初めてのコンサートでした。歌ったり踊ったり、リハーサルも大変で……。本番では歌詞を間違えてしまったり、洋服の着替えがうまくいかなかったりなど、反省点はいろいろありました。父が観に来てくれてまして、「いつもよりもよく声が出てたよ」って言ってもらえてホッとしました。反省点はありますけど、私にとって記念になって良かったと思えるアルバムなんです。この時に「新曲が出ます」って言って、最後に「青春の坂道」を歌わせていただいたんですよね。人前での初披露だったと思います。
ーーこの初めてのコンサートがアルバムとして発売されることは、事前に岡田さんには伝わっていたのでしょうか?
私は知らなかったと思います。発売を知っていても知らなかったにしても、ステージでは緊張したでしょうね。「Vacation」だけはスタジオで録り直しをさせていただきました。ファンの方の「奈々ちゃーん」という歓声も入っていて、あれは後から入れるわけにはいかないから、そのまま使っていただいたんでしょうね。
ーー中野サンプラザは現在は閉鎖されていますけど、コンサートの聖地でしたね。
私は高校が中野だったので、中野坂上の駅から歩いて通学していました。同級生に青島美幸さんがいらして、お父様の青島幸男さんが中野ブロードウェイのマンションに住まわれていたので、よく遊びに行ったんですよ。そういうこともあったので中野は思い出深い地なんです。
ーーオリジナル・アルバムに戻りますが、「青春の坂道」がヒットして、次のシングルが「若い季節」(1976年6月10日発売)、その後に出されたのが3作目の『握手しようよ』(1976年8月25日発売)になります。
ジャケットに私の名前のNaNaというマークが入っていますね。これはいつから入ったのか……おそらくここからだったと思います。
ーーそうですね。アルバムとしてはこの『握手しようよ』からです。発売順ですと「若い季節」のジャケットが最初でした。
このマークはどなたの作なのかはちょっと判らないのですが。当時の事務所の社長さんがカーペンターズみたいなデザインが良いっておっしゃってたような気がします。確かに似た感じですよね。とても気に入っていて、このマークを使ったアクセサリーを作ったこともあるんですよ。このアルバムにも入っている「若い季節」は、歌詞が4ハーフあって4分オーバーの長めの曲なんです。面白い歌詞で。 でも、テレビで歌うと2番ぐらいまでしか歌わせていただけなくて、いつもどこを歌おうか迷った憶えがあります。フルコーラスはなかなか歌わせてもらえませんでした。このアルバムも全て作詞が松本隆さんなんですよね。
ーーこの中で「指定席」という曲は、作詞に松本さんと連名で岡田さんのお名前もクレジットされていますが、これはご自分で作詞もされたのでしょうか?
私が書き溜めていたものを使っていただいたのかもしれないんですけど、あまりよく憶えてないんです。詩を書いていた頃もあったので、『奈々のひとりごと』という本を出した時に、いくつか詩を載せていただいたことがあって、それが使われたのかもしれません。よく聞かれるんですけど、自分でも不思議だったんです。曲としてはすごく大人っぽいバラードで難しい歌ですが、自分の声にはちょっと合ってるかなと思う時もあります。歌詞はたぶんほぼ100パーセント松本隆さんが書いて下さったと思いますけど話題作りのために使っていただいたのかもしれないですね(笑)。松本隆さんって、ふるさとと都会の対比みたいなものをよく書いていらっしゃいますよね。この『握手しようよ』の曲も全部好きです。「握手しようよ」で始まって「握手しようよ」で終わる作り方もすごく好きで、今思えば歌いたい曲ばかりですね。
ーーシングルではこの後に佐藤健さんが作曲の「手編みのプレゼント」(1976年9月10日発売)が出ていまして、その次の「かざらない青春」(1976年12月21日発売)も佐藤健さん。アレンジはずっと瀬尾一三さんですね。
「手編みのプレゼント」は出だしが🎵まっすぐにまっすぐにっていう歌ですけど、レコーディングで力を入れて歌ってくださいって言われたんです。山口百恵さんの「夏ひらく青春」みたいな感じで、ハッキリまっすぐ切れのいい感じで歌ってほしいと言われて歌わせていただいたのが記憶にあります。この頃はまだやってなかったんですけど、その後、編み物が大好きになりまして、セーターやマフラー、手袋とか帽子も編んだことがあります。
ーーそして次のアルバムが『'77 新しい日記帖』(1977年2月25日発売)。4作目のオリジナルアルバムになります。
これも好きな歌がいっぱいあるんです。A面が松本隆さんの作詞で、B面が藤公之介さんの作詞でした。藤さんの歌詞もまたとても良くて、それまでとちょっと違う世界を拓いていただきました。帯に「ちょっぴり大人への出発」って書いてありますね。少しずつ曲調も変わって、「プリーズ・プリーズ」のようにシティポップ界隈でも人気だという曲から、「おやすみなさい」みたいなバラードまでいろいろ。わりと長めの曲が多いんです。シングルではあまり4分台の曲はないでしょう? この頃になるとレコーディングでスタジオへ入る時の緊張は、デビュー当時よりはだいぶとれてはいたんでしょうけど、やっぱり 1テイクでは終わらなかったです。他のお仕事を終えた夜にスタジオへ行って、夜中にかけてのレコーディングでした。でも私の場合、夜中の方が声は出るみたいですね。
ーー「そよ風と私」(1977年4月10日発売)「らぶ・すてっぷ・じゃんぷ」(1977年7月10日発売)という2作のシングルを間に挟んで、5作目のオリジナル・アルバムが『クリーム・ソーダ』。夏らしく弾けた構成でオールディーズのカヴァーにも挑まれていますが、こういう感じの内容はどうでしたか?
どう思われますか?(笑)。 新しいものを出していこうと、いろいろと仕掛けていただいてたんじゃないかと思います。コンサート以外で自分の曲ではないものを歌ったのは、結果的にこのアルバムが最初で最後になったと思います。オールディーズの曲は既に知っていた曲もあれば、初めて聴くような曲もありました。「ネイビー・ブルー」とか「そよ風にのって」は知ってたかな?っていう感じですね。でも知らなかった曲もすぐに覚えられました。自分に合ってるかどうかはわからないんですけど、本当はコンサートがもっとあったら歌ってみたいなっていうような感じがしましたね。
ーーコンサートは定期的に催されていたんでしょうか?
いえ、少なかったですね。最初のバースデイコンサート、それに翌年の全国縦断コンサート(1976年『パディスコ・オンステージ 夏休み岡田奈々ショー』全15公演)と、あとは19歳の時に台本のないバースデイコンサートっていう、本当に台本が無くて、1人で全部やる趣向のコンサートをやらせていただきました。コンサートの機会としてはその3回くらいじゃないでしょうか。3回目にやったのは本当に台 本がなかったんです。スタッフの方がコンサートをカセットで録っていただいていたのを今も持っているんです。50周年記念のCDボックスを出して頂けることになったので、なにか珍しいものがあったらと思って実家に帰った時に色々探したら、その台本がない時のコンサートとか、全国縦断の時の録音もあったんですけど、けっこう雑音が入っていたりとか、喋っちゃいけないようなこともいっぱい喋っていたりしてるので、お聴かせできるものではないなと思って収録を諦めましたけど、そういうものを聴いてみると、やっぱりいい思い出になってますね。
ーーアップテンポな曲とゆったりしたバラード系の曲とではどちらが歌いやすかったですか?
性格的にはアップテンポな曲は苦手なんです。明るい歌の方がやっぱり盛り上がるし、ファンの方のご希望の沿えるようにといった意味では良かったかもしれないですけどね。
ーー続いて6作目のアルバム『バイバイ・ララバイ/愛のフィナーレ』(1978年3月25日発売)です。発売順ではシングルの「求愛専科」(1977年9月25日発売)と「バイバイ・ララバイ」(1978年2月10日発売)の後になりますね。
このアルバムは女性の作詞家さんが多かったんですよね。竜真知子さん、岡田冨美子さん、三浦徳子さん…少女から大人になっていくような歌詞が印象に残ります。その中で森雪之丞さんに作詞・作曲していただいた「銀河系のラヴ・ソング」は、ちょっと変わった面白い曲でしたね。森さんはレコーディング・スタジオにもいらして、場を盛り上げて下さって、楽しかった思い出があります。この曲は私には本当に難しくて、いろいろ教えていただいたんですけど、 うまく歌えたのかどうかわからないです。それに当時は歌っている時に歌詞を理解していたのかどうかよくわからない部分がたくさんあったと思うんですよね。改めて歌詞だけを読んでみると、かなり大人っぽい内容だなとか。時代もあると思いますけど。自分の歌ではないですが、例えば郷ひろみさんの歌で、♪始発電車で帰るっていう歌(「わるい誘惑」)があるじゃないですか。なんで始発電車で帰るのかといつも不思議に思っていたことがあったんです。年齢を重ねるとそういう歌詞の意味がだんだん理解出来るようになっていくのはありましたね。もしもあの時、詞の意味を理解してたら、歌えなかったかもしれないです。
ーージャケットの写真もすごく大人っぽい印象を受けました。
そうですね。これはカメラマンの池谷朗さんに撮っていただきました。カレンダーの写真もよく撮って下さっていた方です。場所はたしか箱根の方だったかしら。どこかのホテルだったような気がします。前髪を切ったこの時の顔がもう満開のニキビなんですよ。すごく肌が荒れてしまったので、前髪を切っちゃったんですよ。だからちょっと今までにない髪型になっています。
ーーそして「だめですか」(1978年4月25日発売)と「湘南海岸通り」(1978年9月21日発売)というシングルを挟んで、7作目にして結果的にラスト・アルバムとなった『Mr.アレンジャー』ですね。
これは「そよ風の微笑み」とシングルの「だめですか」はロンドンでレコーディングしたんですよ。すごいですよね。いろんな経験させていただきました。レコーディングに使ったスタジオはけっこう小さくて、期待してたイメージのスタジオとは違って、東京でもよかったのかな、なんて(笑)。当時は海外録音が流行ってましたから、その触れ込みが欲しかったのかもしれませんね。現地の方にやっていただいたコーラスがすごく素敵だったのを憶えています。
ーー今回のCDボックスでは『Mr.アレンジャー』のディスクにボーナス・トラックとして、発売されたものとはアレンジが違う「湘南海岸通り」と「不意打ち」も収録になってますが、これは岡田奈々さんがお持ちのカセットテープをご提供されたそうですね。
先ほどお話しした何かお聴かせできるものがあればと思って探した時に出てきたものなんです。レコーディングした時にいただいたいろんな歌のカセットテープもあります。その場で歌詞が直されたり変えられて、発売されたものと違ったりして面白いんです。その中から、聴いていただけるような曲はこれかなって思ったんです。
ーー50周年を迎えられた今、歌手活動をされていた期間は、岡田さんにとってどのような時間に感じられますでしょうか?
改めて振り返ってみると、私は本当に子供の頃から歌手になることが憧れだったんだと思います。16歳から約5年間で何曲いただいたんだろう?……70曲ぐらいはオリジナルとして書いていただいてるような気がするんですけど。夜遅くのレコーディングで大変でしたが、スタジオでマイクの前に立ってヘッドホンして歌うことが本当に気持ちが良くて、ずっとこれをやりたかったんだなっていう、歌手になれたんだという気持ちを噛み締めてましたね。何度レコーディングをしてもデビューの時と変わらずドキドキして新鮮で、至福の時間でした。自分にとってはそんな5年間だったと思いますね。45周年の時に新曲の「坂の途中で」をレコーディングした時も、それは変わらなかったです。
ーー最後にこのBOXを手にとって下さったファンの皆さまへのメッセージをお願いいたします。
アルバムの曲はレコーディングで1回だけ歌って終わった曲がほとんどでしたから、そんな歌たちがこういうボックスを作っていただいたことで再び皆さんに聴いていただけるのは、本当にありがたいことだと思います。もう感謝の言葉しかありません。いろいろお話させていただきましたけど、私の青春時代の歌の数々を1つにまとめていただきました。ぜひお手元に置いていただければ幸せです。本当にありがとうございます!